七 - 2
は、西日を思う存分吸収したと見えて、ほてってたまらない。毛穴から染(し)み出す汗が、流れればと思うのに毛の根に膏(あぶら)のようにねばり付く。背中(せなか)がむずむずする。汗でむずむずするのと蚤(のみ)が這(は)ってむずむずするのは判然と区別が出来る。口の届く所なら噛(か)む事も出来る、足の達する領分は引き掻(か)く事も心得にあるが、脊髄(せきずい)の縦に通う真中と来たら自分の及ぶ限(かぎり)でない。こう云う時には人間を見懸けて矢鱈(やたら)にこすり付けるか、松の木の皮で充分摩擦術を行うか、二者その一を択(えら)ばんと不愉快で安眠も出来兼ねる。人間は愚(ぐ)なものであるから、猫なで声で――猫なで声は人間の吾輩に対して出す声だ。吾輩を目安(めやす)にして考えれば猫なで声ではない、なでられ声である――よろしい、とにかく人間は愚なものであるから撫(な)でられ声で膝の傍(そば)へ寄って行くと、大抵の場合において彼もしくは彼女を愛するものと誤解して、わが為(な)すままに任せるのみか折々は頭さえ撫(な)でてくれるものだ。しかるに近来吾輩の毛中(もうちゅう)にのみと号する一種の寄生虫が繁殖したので滅多(めった)に寄り添うと、必ず頸筋(くびすじ)を持って向うへ抛(ほう)り出される。わずかに眼に入(い)るか入(い)らぬか、取るにも足らぬ虫のために愛想(あいそ)をつかしたと見える。手を翻(ひるがえ)せば雨、手を覆(くつがえ)せば雲とはこの事だ。高がのみの千疋(びき)や二千疋でよくまあこんなに現金な真似が出来たものだ。人間世界を通じて行われる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。――自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし。――人間の取り扱が俄然豹変(がぜんひょうへん)したので、いくら痒(か)ゆくても人力を利用する事は出来ん。だから第二の方法によって松皮(しょうひ)摩擦法(まさつほう)をやるよりほかに分別はない。しからばちょっとこすって参ろうかとまた椽側(えんがわ)から降りかけたが、いやこれも利害相償わぬ愚策だと心付いた。と云うのはほかでもない。松には脂(やに)がある。この脂(やに)たるすこぶる執着心の強い者で、もし一たび、毛の先へくっ付けようものなら、雷が鳴ってもバルチック艦隊が全滅しても決して離れない。しかのみならず五本の毛へこびりつくが早いか、十本に蔓延(まんえん)する。十本やられたなと気が付くと、もう三十本引っ懸っている。吾輩は淡泊(たんぱく)を愛する茶人的猫(ちゃじんてきねこ)である。こんな、しつこい、毒悪な、ねちねちした、執念深(しゅうねんぶか)い奴は大嫌だ。たとい天下の美猫(びみょう)といえどもご免蒙る。いわんや松脂(まつやに)においてをやだ。車屋の黒の両眼から北風に乗じて流れる目糞と択(えら)ぶところなき身分をもって、この淡灰色(たんかいしょく)の毛衣(けごろも)を大(だい)なしにするとは怪(け)しからん。少しは考えて見るがいい。といったところできゃつなかなか考える気遣(きづかい)はない。あの皮のあたりへ行って背中をつけるが早いか必ずべたりとおいでになるに極(きま)っている。こんな無分別な頓痴奇(とんちき)を相手にしては吾輩の顔に係わるのみならず、引いて吾輩の毛並に関する訳だ。いくら、むずむずしたって我慢するよりほかに致し方はあるまい。しかしこの二方法共実行出来んとなるとはなはだ心細い。今において一工夫(ひとくふう)しておかんとしまいにはむずむず、ねちねちの結果病気に罹(かか)るかも知れない。何か分別はあるまいかなと、後(あ)と足(あし)を折って思案