七 - 2
。それは余事だから、そのくらいにしてまた本題に帰る。蝉のもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は陳腐(ちんぷ)だからやはり集注にする。――蝉のもっとも集注するのは青桐(あおぎり)である。漢名を梧桐(ごとう)と号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉は皆団扇(うちわ)くらいな大(おおき)さであるから、彼等が生(お)い重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだ蝉取り運動の妨害になる。声はすれども姿は見えずと云う俗謡(ぞくよう)はとくに吾輩のために作った者ではなかろうかと怪しまれるくらいである。吾輩は仕方がないからただ声を知るべに行く。下から一間ばかりのところで梧桐は注文通り二叉(ふたまた)になっているから、ここで一休息(ひとやすみ)して葉裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて、飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。真似をする点において蝉は人間に劣らぬくらい馬鹿である。あとから続々飛び出す。漸々(ようよう)二叉(ふたまた)に到着する時分には満樹寂(せき)として片声(へんせい)をとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見廻わしても、耳をどう振っても蝉気(せみけ)がないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと、叉(また)の上に陣取って第二の機会を待ち合せていたら、いつの間(ま)にか眠くなって、つい黒甜郷裡(こくてんきょうり)に遊んだ。おやと思って眼が醒(さ)めたら、二叉の黒甜郷裡(こくてんきょうり)から庭の敷石の上へどたりと落ちていた。しかし大概は登る度に一つは取って来る。ただ興味の薄い事には樹の上で口に啣(くわ)えてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時は大方(おおかた)死んでいる。いくらじゃらしても引っ掻(か)いても確然たる手答がない。蝉取りの妙味はじっと忍んで行っておしい君(くん)が一生懸命に尻尾(しっぽ)を延ばしたり縮(ちぢ)ましたりしているところを、わっと前足で抑(おさ)える時にある。この時つくつく君(くん)は悲鳴を揚げて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振う。その早い事、美事なる事は言語道断、実に蝉世界の一偉観である。余はつくつく君を抑える度(たび)にいつでも、つくつく君に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになるとご免を蒙(こうむ)って口の内へ頬張(ほおば)ってしまう。蝉によると口の内へ這入(はい)ってまで演芸をつづけているのがある。蝉取りの次にやる運動は松滑(まつすべ)りである。これは長くかく必要もないから、ちょっと述べておく。松滑りと云うと松を滑るように思うかも知れんが、そうではないやはり木登りの一種である。ただ蝉取りは蝉を取るために登り、松滑りは、登る事を目的として登る。これが両者の差である。元来松は常磐(ときわ)にて最明寺(さいみょうじ)の御馳走(ごちそう)をしてから以来今日(こんにち)に至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほど滑らないものはない。手懸りのいいものはない。足懸りのいいものはない。――換言すれば爪懸(つまがか)りのいいものはない。その爪懸りのいい幹へ一気呵成(いっきかせい)に馳(か)け上(あが)る。馳け上っておいて馳け下がる。馳け下がるには二法ある。一はさかさになって頭を地面へ向けて下りてくる。一は上(のぼ)ったままの姿勢をくずさずに尾を下にして降りる。人間に問うがどっちがむずかしいか知ってるか。人間のあさはかな了見(りょうけん)では、どうせ降りるのだから下向(したむ